メンヘラクソビッチなのでセックスについての話をする

昔セックスの最中に脚を攣った男がいたことを不意に思い出してひとりでウケている。あれってよくある話なのかな。自分もそう寝た男の数が多いわけじゃない(むしろメンヘラクソビッチ界ではごく少ない方だと思う)からわからないけれど、少なくともセックス中に脚を攣った男は今の所n=1である。彼は今もセックスの最中に脚を攣ってるだろうか。渋谷のどっかの場末のラブホテルでふたりでゲラゲラ笑い転げてしまった思い出は、まあ割と良い思い出の部類に入りそう。

メンヘラクソビッチを自称しておいて申し訳ないのだけど、今の所わたしはメンヘラクソビッチだった過去など見る影もなくすっかり枯れているし、メンヘラクソビッチ活動はわりと前に辞している。メンヘラクソビッチって過去形でも自称して良いのかな。元メンヘラクソビッチ?でもメンヘラクソヤロウなのは現在進行系だし、元がどこに掛かるのかは曖昧だし、今の所は自称メンヘラクソビッチということで。

概ね女子医学生なんて積極的に合コンやらクラブやらに繰り出さなければ出会いは極めて少ない生き物なので、自分が元メンヘラクソビッチの元はどこに掛かるかなんてことを安穏と考えられているのは、多分その手の機会がないからなんだろうなあという気付きはある。出会いに恵まれてしまったらまたメンヘラクソビッチ活動を再開するんだろうか?ていうかメンヘラクソビッチってそんな開店休業みたいなことがあるのだろうか?ともあれ。

メンヘラクソビッチは大学入学時よりせっせとメンヘラクソビッチ活動を続けていたが、ある日突然セックスに飽きた。これに一体どれほどの意味があるのだろうか?ある日突然そんなことを思った。別にアブノーマルなプレイを制覇とかはしていないし、アブノーマルプレイビンゴとかをやらされたらビンゴどころかリーチも掛からなそうなのだが、とにかく飽きた。多分男と知り合ってテーブルの下でヤレそうヤレなそうの攻防を繰り広げた後でホテルやらどちらかの家やらに行って事に及んでサヨナラして次もまた同じようなことを繰り返す、という一連の様式自体に飽きたのだと思う。承認欲求を満たすためのセックス。快楽のためのセックス。断れなかったセックス。思い出づくりのセックス。そのどれもがプロセスの点で大きく変わることはない。

自分の罪深い性癖のひとつに、一線を越えるということに異常な興奮を覚えるというものがある。一線を越えるあの瞬間がピーク。絶頂。人によってそれがテーブルの下で手を握るだったり足を絡ませるだったりキスをするだったりするわけなのだが、一線を越えるタイミングを図られることに興奮するし、一線を越えるあの瞬間が全てと言っても過言ではない。セックスが始まる瞬間が一番興奮するので、行為そのものは別に副次的なものでしかない。なのでセックスはどんな男とでも一番最初が一番良いと思っている。メンヘラクソビッチが愛のあるセックスとやらをした経験が少ないからなのかもしれない。数少ない愛のあるセックスとやらも、他に比べてすごく良かったか?と言われてもよくわからない。セックス自体は副次的なものだから、そこに優劣をつけたことがない。

で、ある日突然飽きるという話。峰なゆかも同じようなことを言っていたから、割と一般的な話なんじゃないかと思っている。セックスに対するモチベーションが、ある日突然無くなるのだ。あれは結構衝撃的。サクサクとセフレを切ったら、なんだか自分が清純派になったような気持ちがした。気持ちの上ではもはや処女。以後、鉄壁の処女を守っている。いや嘘、本当は何回かノリでセックスした。ごめん。でも男とセックス無しで食事に行ったりお酒を飲んだりするようになったら、なんとなく何かが変わったような感じがした。漠然と、何かが変わってしまった。それが良いのか悪いのかは別として。

今やすっかりセックスが縁遠くなった(元)メンヘラクソビッチなのだが、セックスと距離を置くと存外に気分は悪くなかった、という話。今思えばあれは一種の性依存か何かだったのかもしれない。これにどれだけの意味があるのか?多分なかったんでしょうね。あったのは事象と結果だけで、解釈はわたしの手に委ねられている。あなたが今やってるそれ、意味なんてなかったみたいよ。あの天啓みたいな気付きは、ひょっとしたら未来の私こと現在の私が、当時の私の夢枕に立って教えてあげたことなのかもしれない。などと考えるのは、さすがに美化が過ぎましたね。

お後がよろしいようで。